源頼朝
なりゆき
武士という専門家集団の一大派閥「源氏」の「プリンス」として
久安3年(1147年)に義朝の子として生まれた
平治元年(1159年)13歳平治の乱によって負け組に転落する
頼朝の最大の幸運は清盛の温情で凝らされなかった事
負け組の派閥の「元プリンス」として、生涯おとなしく生きる事を
定められていた。彼自身も、その運命をいったんは受け入れていた。
しかし、頼朝が30代に入った頃、転機が訪れる。都で反平氏の気運が
高まり、源氏の嫡流たる伊豆の頼朝に再び注目が集まる。平氏から見て
「反乱勢力の中核」となりかねない。「危険人物」としてである。
彼は最初から中央への謀反を好んだわけではない。しかし、こうして
「やるか、やられるか」の状況に追い込まれ、結果として平氏を倒し
「幕府」という前代未聞の政体を創出することになる
人心掌握術
反乱者の頼朝には、自分を引き揚げてくれるような存在はなかった。
地位は、自ら戦い獲るしかなかった。からが頼みとできるのは、
一緒に戦ってくれる同志と家人(家来)だけであった。
それを獲得していく、数ももちろん、「やる気」を犯させる、のが
彼にとっての人事戦略出会った。
当時の東国武士たちは、中央の人事システムの埒外にあり、多くが
無位無冠である。だから出世やポストの誘惑で動くことは少なかったが
その代わり「恩こそ主」を標榜した。頼朝がとった手は
治承4年(1180年)8月、北条時政以下の家人を一人ずつ呼び寄せ、
こう言った「いまだ口外せずといへども、ひとえに汝を恃む」と囁いた。
つまり、「ここだけの話だが、お前だけが頼りだ」