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平将門

「敗者」平将門の栄光

天慶2年939年12月、常陸、下野、上野など北関東を巻き込む大規模
なものであった。板東独立構想である。
天慶3年の2月に潰える。藤原秀郷、平貞盛連合軍に、将門は敗北した。
勝ち組の秀郷は従四位下、貞盛は従五位上を叙せられた。
これらは、中下級貴族に位置付けられた。軍事貴族です。
従来ある人事システムに風穴を開けることにつながった。
秀郷の子孫の一派は、奥州藤原氏に繋がり、また北関東にひろがって
鎌倉幕府の有力御家人のルーツとなる。
貞盛の子孫も、平清盛の系統や北条氏のルーツとなる。
武家政権の担い手となって言った。
「負け組」の将門は、秀郷や貞盛と違って、中央志向がなかった。
既存の価値(人事システム)を度外視することで、急進的無方向に
進もうとした。体制からの独立であった。
10世紀の将門の乱での「勝ち組」と「負け組」は、その後の武家政権
二つの方向を示す結果になった。
その一つは、清盛の平氏政権であり、もう一つは、中央からの自立を
志向した頼朝の鎌倉政権だ。それぞれが「勝ち組」「負け組」の
帰着点というこになる。
中せはまさに将門的世界を母体として始まったのだ。