市民戦争
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南北戦争
1861〜1865年 日本では桜田門外ノ変が1860年です。
「the Civil War」と呼ばれるように、アメリカが南北に分かれて4年も
戦い、60万人を超える死者を出しました。当時の人口で考えると、アメ
リカ人の実に50人に一人ぐらいが市民戦争で亡くなった計算になる。
第一次世界大戦でのアメリカ軍の死者が12万弱、第二次世界対戦だ29
万人なので、これまでにアメリカが経験した戦争の中では、飛び抜けて
多くの死者が出ています。しかもそれは市民同志の戦いでした。
市民戦争は「リンカーン(在任1861〜65)率いる北部の人たちが
南部の奴隷制度をやめさせようとした」と説明されることがあります。
たしかにその一面はありますが、本質は対外貿易をめぐる経済問題にあり
ました。
当時の南部は農業中心の経済で、黒人奴隷を使って綿花などを栽培し、ヨー
ロッパに輸出して大儲けをしていたのです。お金持ちだったのです。
一方、北部は米英戦争(1812〜14)によって英国の工業製品が輸入
できなくなったので、急ピッチで工業化を進めました。自分たちの産業を
育てるため、南部の人たちに、「ヨーロッパ製品を輸入しないで、うちの
商品を買ってくれ」と求め、輸入制限や輸入品に高い関税をかける保護貿易
政策を採るべきだと主張していた。
しかし、北部の工業化は始まったばかり、大工業大国の英国連合に敵うはず
がありません。
北部は保護貿易を求め、南部は自由貿易を維持したい、この対立軸は明確
です。