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持統天皇

第16代

実在が確実視される継体天皇から第十六代になる
在位690〜697年
父は天智天皇(中大兄皇子、在位668〜672)、母は遠智娘(蘇我氏
の出身)、本名鸕野讃良(うののさらら)です。12歳にて、大海人皇子
(天武天皇、在位673〜686)の妻になる。
672年に天智天皇天皇が死去すると、子の大友皇子(弘文天皇、在位67
2年)が後継者となりました。しかし、大海人皇子がクーデタを起こし、
古代日本で最大の内乱と言われてた壬申の乱(672年)です。日本初期に
には、この企てには讃良も加わっていました。成功して、大海人皇子が即位
し、讃良は皇后になります。

その後

病気がちだった天武天皇に代わって、息子の草壁皇子とともに政治の表舞台
に立ちました。天武天皇が686年に没し、さらに689年には草壁皇子が
病死します。
草壁皇子の息子である軽王子はまだ6歳、皇位を継ぐ年齢ではありません。
讃良は天武天皇の死後、政治を取り仕切っていましたので、そのまま即位し
ます。
持統天皇は、中国の都城にならって、藤原京を造営します。持統天皇は、唐
や新羅に対抗して中央集権国家の建設に邁進し、藤原不比等の助けを借りて
律令国家を成立させます。「日本」という国号や「天皇」という称号も確立
させました。また「漢書」などの中国の正史を真似て「日本書」という歴史
書の編纂にも取り込みます。伊勢神宮の式年遷宮も、持統天皇の治世に始ま
ったという説もあります。
唐と新羅が争っている間に、白村江の敗戦で破綻した後の傭兵戦略を切り替
え、態勢を立て直したのです。
私たちが「日本」といって思い浮かべるものの本体は、持統天皇の時代にで
きたものです。
孫の軽皇子が14歳になると天皇の地位を譲ります。彼が文武天皇(在位
697〜707)です。持統天皇は皇位を譲った後も、太上天皇(上皇)
という立場で政治を執り行います。日本で最初に上皇となり、「院政」を
始めたのも持統天皇です。

武則天

持統天皇がロールモデルにしたのは、中国の武則天(在位690)です。
中国史上唯一の女帝として知られる英傑です。武則天が、夫である病弱な
唐の高宗(在位649〜683)を差し置いて政治を動かすようになるの
は、持統天皇が10歳ぐらいのときです。それから武則天は約50年間、
中国に君臨しました。