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大江広元

太政官外記局

久安4(1148年)年に生まれる。大江家は文書係の中下級貴族
鎌倉に渡るまでは、太政官外記局に勤める中央官僚です。
頼朝が広元を「スカウト」している。京都人脈、広元の義兄の中原義親
乳母関係の三善康信とのつき合いが生きた。
広元は「不良」貴族ではなかったし、京都でも安定した人生が約束され
ていた。
しかし、安定はしていても、大江の家柄では、京都での出世に限界がっ
た、彼が鎌倉に移る時点の位階は従五位上。そこからいくらがんばって
も三位以上の公卿(高級官僚や大臣)になるのは無理だった。
そうしたことから、広元は頼朝の鎌倉幕府に賭けてみる気になった。
条件もよかった。文官であり、「よそ者」である広元は、鎌倉のトップ
にはなれない身だ。しかし、彼が得た政所別当という地位は、幕府内部
では官房長官のような事務方のトップであるから、望みうる最高の地位
です。

業績

文治元年(1185年)の守護・地頭制の提案。
地頭は市町村長、守護とは県知事のようなものです。
いくつかの地方自治体の首長の任命権を、鎌倉が得た。
これにより、地場産業であった鎌倉幕府が全国展開のナショナル・
チェーンとなる。それが、のちの大名などのもとになリます。
広元の提案は、鎌倉幕府のみならず、その後数百年の国のかたちを
変えたと言っていい。
「広元ならでは」という点で重要なのは、これを京都に呑ませたタイミ
ングです。王朝側は本当はこの制度を認めたくない。しかし、頼朝の対
抗馬と目された義経が逃げ、頼朝追討の綸旨を出すが失敗し、恐慌を来
たしていた、まさにその時にこの提案が突きつけられる。
「頼朝がいま攻めて来たら王朝は滅びる」京都は実際、その恐怖を感じ
ていた。それを敏感に察知し、最大限の譲歩を京都から引き出したのが
広元だった。

承久の乱(1221年)

その後一気に30年以上飛んで、その間、北条氏をはじめとした有力御
家人の権力闘争を背景に、源氏は3代で終わっている。しかし、広元は
勝ち組の北条氏に付き、今や70代で出家していたが、北条執権政治の
なかで変わらず重鎮の地位を占めていた。
承久の乱は、後鳥羽上皇の王朝が、北条義時・政子の鎌倉に仕掛けた
戦争だ。弱体化していた鎌倉幕府にとって最大の危機となる。
鎌倉側の大勢は、王朝側を坂東で迎え撃つ戦術を主張した。それに異を
唱えたのが広元です。「こちらから京都に攻め込むべし」と
「待ち時間」が長いほど鎌倉側に不利になることを冷静になって見抜い
ていたのと、古巣の京都に幻想を持っていなくて「勝ちために何が必要
か」をわかっていた。
この承久の乱は、鎌倉側が勝つべくして勝ったと思われがちだが、広元
の意見と政子の決断がなければ、どうなっていたか分からない。

78歳まで

広元は鎌倉の勝利を見届けてから3年後、78歳で亡くなる。
彼の功績を考えれば、彼を起用した頼朝の人事の功績も改めて実感でき
よう。
広元の例は、役に立つ「天下り」の実例というだけでなく、組織に「異
物」を入れることの重要性を教える最高の例です。
一度もトップに立たない、立とうとしない広元のような存在は、えてし
て歴史のなかで印象が薄い、しかし、本当に利口な人間とは彼のような
人かもしれない。名より実を選び、組織と自らの両方に巨大な実をもた
らした。「宮仕え人生」の一つの理想型にも思える