王位空白6年半
王位継承
集団のトップの座であれ、特定の要職であれ、新任者がそれに就任する
場合に、前任者の構想やその成果を引き継ぐのが要件とされることは、
現在の企業でも認められる。後任者は、前任者の構想と成果を引継いだ
ことが周囲から正式に認知されて初めて、そのポジションを我ものとする
天智の場合、この点がまったく考慮されなかった。なぜならば、斉明は
「中継ぎ」の女帝であり政治的な実験など持ち合わせておらず、他方、
天智は偉大で有能な人物であって、いつ即位してもおかしくないと見なされて
きたからだ。だが、このような前提自体に疑問がある。
斉明は、飛鳥川の東岸に大王の地位と権力の象徴となる都市空間「倭の都」
を完成させた。さらに安倍比羅夫を起用して北方遠征を行い、東北や北海道
の住民を「蝦夷」と称して大王の支配下に組み込んで行った。唐・新羅に滅ばさ
た百済に対する軍事援助を行ったのも、復興した百済王権を大王の支配下に
置こうとしたためだ。斉明は、倭国王(大王)が中国の皇帝と同じように
世界の中心に君臨する大国の主であるという実体を構築しようとしたのだ、
そのための北方遠征は一定の成果を収めたが、百済救援戦争の方は全くの
失敗に終わった。だから天智は、斉明による北方遠征の成果をより確かなもの
とするだけでなく、百済救援が成功した暁に得られたであろうものをたとえ
一部でもその手にしない限り、斉明の正当な後継者として認知されなかった。
天智が即位までに長い年月を要したのは、彼が斉明の構想とその成果を
引継いで、その正当な後継者として認知されるまでに、一定の期間と努力
を必要としたためと言えよう。
前任者の存在とその構想が巨大であればあるほど、後任への期待と重圧は
過大なものとなる、天智の試練とはまさにこのことです。
天智は近江大津宮を完成させることにより、前大王斉明の構想に基づく
二大事業、北方遠征と百済救済の成果を引き継ぐ見通しを得た。その結果
斉明の後継者としての地位を確かなものにした、彼は、大津宮に遷った翌年
正月に晴れて王位継承儀礼を挙行することになった。
ところが、天智が正式な即位までに多大の時間と労力を要したツケと言えようか
皮肉なことにそれからわずか4年後、彼は病によりこの世を去る恋とになる
それは46年というあまりにも短い生涯だった