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徳川トップ人事

家康

家康は、将軍就任2年にして将軍職を辞し、三男の秀忠に譲った。
将軍職を秀忠に譲ることによって、将軍職を徳川家で世襲し、政権を豊臣家
に返さないことを天下に示したのである。
将軍の座は、三代将軍家光以降、長子相続が原則となった。4代家綱、
7代家継、9代家重、10代家治、12代家慶、13代家定らは、いずれも
長子である。しかし、子なかった家綱や、嫡流が絶えた家継の跡目選定の
場合は、誰が将軍を決めたのだろうか。
5代将軍綱吉の将軍選定にあたっては混乱があった。家綱に子供がなかった
ため、大老酒井忠清が親王を将軍に擁立しようと画策したというのである。
また、綱吉には、兄綱重の綱豊(後の6代将軍家宣)という競争者もあった
綱吉が家綱の養子になるにあたって幕閣内に異論があってのも当然である。
綱吉が公式に家綱の養子になることが決まったのは、延宝8(1680)
年5月6日である。この日家綱の病状が悪化したため、綱吉が東城を命じら
れ、寝所で直接命じられた。
翌7日、綱吉は、家臣を連れて登城し、家康の陣刀であった本城正宗の刀
などを拝領し、大納言に任じられる。これを受けて、酒井忠清と稲葉正則が
、この決定を甲府家および御三家に告げた。

おそらく5月5日かそれ以前に、酒井忠清や稲葉正則のも伝えないまま
老中堀田正俊が綱吉を推す意見書を家綱に提出し、それを家綱が書付け
で裁可を与たのだろう。
このように家綱のはっきりした意見が示されてしまうと、いかに権力を
持っていても、大老の酒井忠清や老中の稲葉正則らですら反対できない
ということである。
次期将軍選定をめぐって幕僚内で意見の対立があったにせよ、それを最終
的に決定する権限を持つのは現将軍である家綱だけであり、その意志に
反対しうる者はいなかったといえよう。
当然のことながら、幕閣すべて等しく将軍の家臣であったということになる

徳川吉宗

それでは、当の将軍が幼少であったり、急死したりした場合
正徳2(1712)年10月、4歳で将軍宣下を受けた7代将軍家継は、
正徳6年4月に8歳で没し、徳川宗家の血統が絶えるという重大事件に
なった。2代秀忠以降、5代にわたって秀忠の血統の者が将軍家を継いでき
たが、それが絶えたとなると、御三家の当主が、その候補となる。
御三家には、尾張・紀伊・水戸という序列があったが、特定の時点において
は、それぞれの当主の年齢や性癖などが当然加味される。簡単に序列通りと
いうわけにはいかない。特にこの時期、将軍候補の一番手である御三家筆頭
の尾張徳川家では不幸が続いていた。
当主吉通が正徳3年7月に、その子五郎太も同年10月に死去した。そのた
め、吉通の次男、22歳の継友が尾張家当主の座についていた。
そのため、御三家大2位の紀州徳川家の当主吉宗が将軍候補として浮上して
きた。家継が危篤になったとき、吉宗は33歳、すでに紀州藩主として12
年間の経験を積んでいた。

家継の生母月光院や側用人の間部詮房、儒学者の新井白石らは尾張の継友
を推そうとしていたが、老中らの譜代門閥層は、これまでの幕政の実権を
握っていた彼らに反発しており、天英院を味方につけて巻き返しをはかった
天英院は6代将軍の御台所です。この時、徳川宗家(宗室)の代表者でもあ
たのです。