1. TOP
  2. 歴史
  3. 武田信玄

武田信玄

戦国の雄

武田信玄の居城、躑躅ヶ崎城は、まことに小さかった
荻生徂徠が甲斐を尋ねた時の感想です。
「人は石垣、人は城、情は見方、仇は敵」軍学書として知られる「甲陽
軍鑑」に収める、徂徠の「峡中紀行」に引用する一説。
領国の経営と安定野のために、領内の武士と農民をしっかりつかまえて
おけばいい。城の構は二の次との思考が見える
居城や館はシンボリックなものとして、当時の戦国大名たちが巨大さを
競ったことも事実だが、この信玄のように虚飾を棄てた人物もいた。
堅固な城は領内での反乱に対する防衛のためももちろんあった。信玄は
配下の武士、農民ともども自己の陣営のために命をはることを疑わなかった
とすれば、堅個な城もなんら必要はないし、まして石垣や堀で城を補強
することもない。これが「人は石垣、人は城」の本質ということになる。
ここには、人間第一主義ともいうべき領国経営の方針が見事に表現され
ている。

目先の利にとらわれない生き方

信玄は大永元(1521)年に甲斐守護武田信虎の長男として誕生した
北条早雲がこの2年前に死去している。また毛利元就が家督を継いだ
時期に近い。信長の誕生はこの十数年後だった。
幼名勝千代、天文5(1536)年に現服して晴信と称した。天文10
年に父を駿河の今川氏に追放し、家督を継ぐことに成功する。
以後、信濃各地に転戦、雄族村上義清を越後へと走らせた。これを受けた
上杉勢が南下、その後の信州川中島の戦いへと繋がる