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藤原道長

この世は我が世

と歌ったのは、一家から3人の皇后が出たことを指している。
道長の長女彰子(31歳)は後一条とその弟で当時皇太子だった後朱雀天皇
(10歳)の母で太皇太后。次女姸子(25歳)は、一条と後一条の間に
存在した三条天皇(故人)の中宮で当時は皇太后。そして、三女威子が
後一条の中宮に収まって、太皇太后、皇太后、皇后がすべて道長のむすめに
よって占められているいる、まさに栄華の極みである。

彼の絶大な権勢は外戚の座や摂政、関白の地位だけで維持できたわけではない。
彼は摂政になったことはあるが、それは極めて短期間であり、関白に就任した
ことは一度もなく、むしろ彼はそれを頑なに拒み続けたからだ。
道長の権勢を保障したものは、ズバリ「人事権」の掌握です。

<摂政/h2>

 

「政を摂する(政治を統括する)」。天皇の政務を代行するポストだった。
叙位や除目(任官)などの人事をはじめとする天皇の政務の一部を代行する
権限を有した。866年に清和天皇(17歳)の外祖父、藤原良房が任命
されたのが最初。

関白

これは、「関かり白す」という意味、天皇に奏上を行い、天皇から下された
事項に関して関係者に謀るというのがその責務だった。884年、光孝天皇
が先代の陽成天皇(17歳で強制退位)の摂政だった藤原基経(良房の後継者
)にそのその責務を与たのが最初で、887年光孝のむすこ宇多天皇が基経に
同様の責務を与た時に関白の名が正式に用いられた。この時「阿衡の紛議」
が起きた。

摂政、関白はいずれも天皇の政務を代行する地位と言われているが、
両者の権限には微妙な差異があった。「人事権」の掌握という点で関白は
摂政に及ばなかった。摂政は幼少の天皇、関白は成人の天皇を担当する
という明確な分担が当初からあったわけではない。
10世紀の前半、基経のむすこ忠平のとき、天皇幼少時=摂政、天皇成人
=関白という例が定まった

内覧

当時宮廷政治のキーマンはとなりうる地位は摂政、関白だけではなかった。
「内覧」というポストがあった。天皇に奏上する文書や天皇が裁可した文章
をあらかじめ見ることができる権限のこと。その後そのような権限を有する
地位に呼び名となった。「内覧」が関白と同義とされた時期もあったが、やがて
関白でなくても「内覧」の職務を果たす例が現れ独立したポストになった。
995年、道長は一条天皇から「内覧」に任命され、これにより宮廷政治の
中枢を押さえることになる。また「一上」と呼ばれる地位も重要です。政務
執行にあたる公卿を上卿と言ったが、その執行者をこう呼んだ。太政官の
事実上の長官である左大臣がこれにあたる。「一上」となった左大臣が摂政や
関白を兼ねたり、または左大臣が欠員の場合には、次席の大臣がこれを務めた
道長は996年に左大臣に任命されて以来、太政大臣となる1017年まで
の21年間の長きにわたって「一上」を務めた。どうも彼にとって、「一上」
は摂政・関白よりも魅力ある地位だったようだ。それは「一上」が宮廷の
「人事」に直接関わる要職だったからです。

実は道長、「この世は我が世」と歌った翌日、目が見えないと訴えている。や
っと自分の手のひらが見える程度だという。これは来年の糖尿病による白内障
だ。やはり糖尿病による背中の腫れ物のせいで「我が世」と誇ったこの世を
さるのは、それから9年後のこと。